Quantcast
Channel: nonの徒然日記
Viewing all articles
Browse latest Browse all 27

小説「クムラン」のレビューと宗教の密教的側面について

$
0
0


長文記事です。

エリエット・アベカシスの処女作「クムラン」読了。
モチーフとしては、1947年にイスラエルの遺跡ヒルベト・クムランで見つかった、聖書関連の写本群「死海文書」を巡って起こる殺人事件を追っていくに従い、ユダヤ・キリスト教の謎が明かされていくという神学ミステリーですが、この著作の実態は宗教書なのではないかと思いました。一神教について、そのくらい膨大な情報量です。
この物語は、ある女性の数々の幻視から、哲学者である著者が霊感を受けて生まれたそうです。読んでいると、エリエット・アベカシスの怨念にも近い、キリスト教に対する強烈な情念に侵され、頭がクラクラします。作品が発表されたとき、著者は27歳。写真を見ると可愛らしい美人で、アイドルみたいなので、何でこんな業の深い本を書いたのだろうと思います。

「死海文書」というのは、イエスや洗礼者ヨハネが属したとされるユダヤ教エッセネ派のクムラン宗団による、実際に見つかった、主に旧約聖書の最古の写本群のことです。教会の手が入っていないわけなので、発見された当初、バチカンによって葬られそうになったとか言われる、宗教上の曰く付きのミステリーで、一時期ムーブメントを起こし、アニメ「エヴァンゲリオン」でもテーマになっています。

余談ですが、この本の文庫版が出版されたとき、調べたら2000年なので私は22歳の頃ですが、本屋で帯の文句に惹かれて買って読んでみたのですが、当時私は聖書は福音書を読んだことがあるくらいだったので、預言者ってなにみたいな感じで、書いてあることがよく解らず、序盤の序盤で挫折しました。今回は時を越えてのリベンジだったのですが、旧約聖書も読んで知識をつけたので、ぐいぐい読めました。

ミステリーとしての物語の展開も面白いですが、個人的に印象的だったのは、ユダヤ密教カバラの神秘的生活(霊的修行生活のことだと思われます)の最終段階「デヴェクート」に関する記述です。
≪デヴェクートは我々(カバラ教徒)の生の中心であり、「贖罪」の核でもある。デヴェクートによってこそメシアの到来が早まり、そして成就する。メシアは神と同じく“全現前”することはない。すなわち、神がありのままで現れることはない。メシアも神と同じく“収縮”の形でこの世に現れる≫
この“収縮”はカバラでは「ツィムツーム(神性の収縮)」といい、この書籍の記述によると、神という無限の意志が有限の存在へと「内向」し、人間に場を譲ったことだそうです(この世界は「神の不在」によって創造された)。カバラの創造に関する詳しい理論は、難し過ぎて私にはよく理解できませんが、収縮ということは、ツィムツームには、神はへりくだった、みたいな意味もあるのでしょうか。それくらいしか考え至りませんが、ただ、不在が前提なのであれば「神は誰か」ということは、決定的にわからないというところがあるわけですね。神の存在を信じられる人と信じられない人がいても、しょうがないのかもと思ってしまいます。
いずれにせよ、ユダヤ教徒の使命はメシアを再臨させ、神の王国を築くことのようです。

この小説の中で、殺された人物の切り離された皮膚が巻物の皮紙に見立てられ、そこに、
福音書における最後の晩餐でのイエスの有名な言葉、
「これは私の血、
これは私の肉、
多数のために流される契約の血」
のテキストが記されているというくだりがありますが、この小説の内容と直接は関係のないことですが、最後の晩餐の後、メシアとしてのイエスが、十字架の上で磔刑になって死ぬことにより、その霊性によって人類の罪を中和したということが、これまでの人類史にとってのイエス・キリストの存在の核心ですが、これがいわゆるイエス・キリストの「贖罪」ですけども、案外、その中和された罪、許された罪はいったいなんだったのかということが、これって割と素朴な疑問なのではないかと思うのですが、あまり知られていないと思うのです。私もイエス・キリストを信仰しているものの、実は今まで深く考えたことがありませんでした。というより、罪ってすごく個人的なものだと思っていたので、そういう意味で信仰によって自分が救われればいいと思っていただけで、人類の罪がどうとか、あまり考えたことがなかったのです。そこで、インターネットで調べてみました。
結論からいうと、混乱しているところもあるようですが、核としては「アダムとイブがエデンの園で蛇にそそのかされて知恵の樹の実を食べ、人類が死ぬ肉体になってしまったところを、再び永遠に生きる肉体にするための贖罪だった」ということのようです。
ここから、宗教のオカルティズムを含む密教的な側面から「いったい神とは何なのか」ということを考えていきたいと思います。

インド発祥のヨガでは、肉体の尾てい骨のあたりに「蛇の火」という生命の根源的なエネルギーが眠っているとされます。性のエネルギーであり、これを「クンダリニー」といい、通常は三回転半とぐろを巻いて眠っています。これが、瞑想などの宗教的行や、腰部に強いショックが与えられるなどの外的な刺激により覚醒すると、脊椎を貫通しているスシュムナー管という気道を昇っていき頭頂に達し、人智を超えた能力を身につけさせます。この、蛇の火が覚醒してスシュムナー管を通る過程で、7つあるとされる、チャクラという「気の出入り口」を次々と開いていくことによって、強靭な肉体や霊的な能力が備わるというのが、一般的に言われている説ですが、クンダリニーというのは凄まじい生命の根源力なので、扱いが非常に難しく、覚醒してもうまく昇華されないと、廃人になったり、頭がおかしいような感じになったり、死ぬより苦しい地獄の苦しみを味わったりします。クンダリニーの火で内側から焼け死んでしまう人もいます。オウム真理教の、現在死刑囚となっている元教祖も、このクンダリニー上昇の失敗によっておかしくなったとも言われています。
統合失調症で精神科のお世話になっている患者の中には、少なからずクンダリニーが覚醒しておかしなことになってしまっている結果の人がいるようです(正直私もそれなんじゃないかという不安は拭えないのですが)。
良いにしろ悪いにしろ、クンダリニーの顕現というのは人によって様々で、うまく覚醒しても数か月で元に戻ってしまう人も多いし、発展させて様々な霊的経験をする人、更には輪廻を超えるほどの神的世界に入っていく人もいます。
ヨガの伝統でクンダリニー上昇を語ると、蛇の火、クンダリニーは、ヒンズー教のシヴァ神の妃の、シャクティーであるとされています。シャクティーは、有名なカーリー女神の、性力としての別の顔です。尾てい骨のあたりにある第一チャクラ、ムラダーラ・チャクラで眠っていたシャクティーは、クンダリニーが覚醒すると、脊椎の気道、スシュムナー管にあってクンダリニー覚醒の障壁となるブラフマー結節、ヴィシュヌ結節、ルドラ(シヴァ)結節という三つのエネルギーの関所を破壊して上昇していき、最後のチャクラである頭頂のサハスラーラ・チャクラにいる夫のシヴァ神と結合します。そしてシヴァと共にムラダーラ・チャクラに回帰するそうです。これが理想的なクンダリー上昇だと思われます。こうなると、解脱がおきるそうです。
クンダリニー上昇に失敗するときの大きな要因は、この結節の詰まりにあるようです。例えばルドラ結節の詰まりは、ヨガ行などによって身に着いた霊的な超能力などに執着することから来るそうで、この執着を手放すことは、高名な聖者でも難しい場合があるそうです。確かに普通に考えると、霊能力のない聖者ってなんなのかと思ってしまいます。
けれど何か、クンダリニーによるシャクティー神とシヴァ神の大変な邂逅については、神様もそんなに激しく愛に苦しむんだなと思うと、土下座してお祈りしたいような気持になります。
現在の人類にとって荒ぶる力のクンダリニー上昇が必要なのかどうかわかりませんが、クンダリニーというのは神的世界の基礎なのですね。

話は戻ってアダムとイブについてですが、オカルティズムでは、イブをそそのかして知恵の樹の実を食べさせた蛇は、クンダリニーの象徴であり、蛇によってクンダリニーの力に目覚めたイブは、同じく知恵の樹の実をイブがすすめて食べさせたアダムと共に、生殖ができるようになり、楽園エデンにおいては神の恩寵によってだけ授けられていた「子供」を、自ら創造することが可能になり、エデンから追い出され、自立していったそうです。生殖ができるようになったと同時に、死ぬ運命も背負ったということです(のちにイエス・キリストに贖われる罪ですね)。

色々とオカルトで密教的なことを書いていますが、一神教でも仏教でもヒンズー教でも、メジャーなどの宗教にしろ、顕教的側面というのは、「人間を超えた存在に対する畏敬の念を持って道徳心を身に付けさせる」という社会的な意味合いが大きく、命の神秘については言えないことが多過ぎて、メタファーで成り立っているところが多く、冠婚葬祭にはじまり日常性を維持しなければならない顕教の役割というのは、生命の根源を崇拝するのではなく「家族愛のシステムを保障する」ということなのではないかと思います。顕教を批判しているわけではなく、顕教がなければ人が穏やかに宗教と出会うことも少ないでしょうし、密教はラジカルで危険なところがあるので、公に扱われなかったり迫害されたりするのは、そういうものだろうなとは思っています。

マヤ歴が終わっていることから、スピリチュアルの世界で2012年の12月下旬ごろにあるんじゃないかと噂されていた、この世の大きな変化とされたアセンションについてなのですが、まだこれからと言っている人もいますが、アセンションに当たって、クンダリーニ上昇が全ての人類に起きるという説を唱えている人がいます。クンダリニー上昇に耐えられる清い人間だけが、命を得るという、キリスト教の終末的考え方です。
噂になった2012年のアセンションに関しては、皆の終末待望や霊的進化への願望、この世に嫌気が差す気持ちなどがマヤ歴という道具を見つけて引き起こしたノストラダムス的なブームだったんだろうと思うのですが、いつになるかはわかりませんが、終末、最後の審判にあたって、人類全てにクンダリニー上昇が起きるというのは、聖書の解釈としては、正解の見立てではないかと思っています。
現実問題、クンダリニー上昇によって選別されるという、そんなに恐ろしいことが、本当に起きるのかということに関しては、別に考えなければいけないところではあると思うのですが、新約聖書の終末預言であるヨハネ黙示録は、それを想定して書かれているとしか思えないのです。人間を神的世界と繋げるチャクラの数は7つですが、ヨハネ黙示録は、7つの教会への挨拶からはじまり、7人の天使が7つのラッパを吹いて7つの恐ろしいわざわいを引き起こし、7つの封印が解かれ、7人の天使が神の怒りの満ちた7つの鉢を受け取って、神の怒りを地にぶちまけたりと、7という数字が頻出します。
清い人間だけが神の祝福により永遠の命を得て、それ以外の人間は火の池に投げ込まれて永遠に苦しむと書いてあります。火の池で苦しむって、クンダリニーの暴発のことではないでしょうか。
クンダリニーのことを考えると、人間生きているだけでのっぴきならない事態だと思います。ただただ神によって生きているだけなのだと感じられるのです。
ヨハネ黙示録に書かれていることや人類の選抜という預言は、恐ろし過ぎることですが、私は、個人的に「イエス・キリストは果てしなく慈悲深いお方だ」と結論づけたら、精神症状が劇的に改善されたという経験があるので、神を畏怖するのは大前提ですが、神の怒りによって最後誰が裁かれるということは、あまり人間が考え過ぎるべきことではないのではと思っています。逆説的に、神の慈悲深さを畏怖することがいいのかな、と思います。
ただ、聖書に、イエス・キリストや大天使ミカエルは悪魔を滅ぼすとありますが、「イビサ」や「エクスタシー」などの村上龍のハードSМ系の小説を読んだりすると、暴力の絡んだ性の世界って本当に悪魔が巣食っているんだなと思って、神戸連続児童殺傷事件の少年Aも深刻なサディストでしょうし、天使は堕天した悪魔だそうですが(堕ち方も凄まじいですが)、どうなるんだろうなとは思います。悪魔って救われるのだとしたら、どう救われるのでしょうか。

小説「クムラン」のレビューに戻りたいと思います。
最後にもう一つ、この小説を読んで引っ掛かったキリスト教に関する興味深いことは、洗礼者ヨハネの問題です。日本人の洗礼者ヨハネに対する一般的なイメージって、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」もありますし、ビジュアル的に強烈なので「王女サロメに祝宴での踊りの褒美として斬首され首を持っていかれた預言者」が一番強いように思うのですが、この小説からの引用になりますが、
≪ヨハネの生きた理由はたったひとつ、すなわちメシアの到来を告げるためだけに存在したのだ≫
ということが正しい見解のようです。
福音書の時代は、イエスよりも、ヨハネのほうが全く有名でした。レオナルド・ダ・ヴィンチはキリスト教について数々の宗教画を描きましたが、贋作の疑いが残るものを別にすれば、聖書の登場人物で単体で描かれた作品があるのは、洗礼者ヨハネただ一人です。キリスト教とあまり関係のない日本人だとあまり馴染みのない感覚ではありますが、ヨハネという人はイエスに次いで重要な人物だとされている史実があるようです。この小説の中の、
≪ヨハネはまさしく“特別な祈り”であった≫
という言葉が、ヨハネの真実、重要性をよく表していると思います。
しかし、この小説にはイエス・キリストの再臨まで書かれていますが、やはりヨハネがどこまでいっても「人間」であるのに比較して、イエス・キリストは、現代においては異形の者として幻視されることもある、異質な存在として描かれています。そして、磔刑によって死んだイエスが、再臨にあたっては、圧倒的な神性をたずさえてやって来くる様子を、小説の中の最後の死海文書「メシアの巻物」に、こう預言されています。
≪そしてあれほど待望された天の国が“彼”によって到来することになる。
彼、救世主は「獅子」と呼ばれる≫

クリックいただけたら嬉しいです。
ブログランキング・にほんブログ村へ

Viewing all articles
Browse latest Browse all 27

Trending Articles